もう一回したい

家の近く(と言っても電車で30分ほど)の遊園地が無料開放していたので行ってきました。

 

無料になるのは、園内への入場料、だけです。

つまり、乗り物は、通常の料金がかかります。

乗り放題券もありますが、入場券がセットになっています。

 

これって現場についてみたら思っていた以上にお金がかかることがわかってがっかり、みたいな話なのかもしれません。

私たちは状況が分かっていたので、初めから、ほとんど乗り物を使わない前提でいきました。

 

1年少し前、東京ディズニーランドに連れて行ったときは、息子がそこかしこで怖がって、全く楽しむことができませんでした。

その理由は、本人いわく、音が大きいところは怖いから。

それからゲームセンターなど、確かに大きな音は苦手なことが分かってきました。

一方で、遊園地は開放的な場所であるがためか、意外と音を怖がないことも分かってきました。

そのため、今回は下見も兼ねて、あまり乗り物に乗らなくてもいいだろうと思っていってきました。

 

園内は大人でも楽しめる乗り物と、子供向きのものとに分かれています。

息子は、園内をぐるっと見て回った上で、初め、スプラッシュマウンテンの子供版、のような乗り物に乗りました。

で、終わると、もう1回乗りたい!と言うのです。

 

歩き回って疲れているはずだから、と座って、お菓子を食べさせ、一休み。

それから、次は何に乗ろうか、あそこにある水が飛び出す乗り物も楽しそうだよ、と誘ってみると、そちらがいい、という答え。

 

これも1回乗って気に入り、もう一回としつこく言うので、2回乗りました。

1回3分程度でしょうか。

満面の笑みで楽しそうでした。

 

今日は乗り物3つまで、と言っていたので、これで帰ろうとしたところ、帰り道にあった輪投げを見つける息子。

わたしは目指す方向にモノを投げられないので楽しくないだろうと思っていたのですが、乗り物は3つまで、という約束に輪投げは入っていなかったので、やらせてあげました。

全くかすりもしなかった、どころか、景品の乗っている台に3投のうち1回届いただけでもすごいと感心してしまいました。

 

遊園地の出入り口の近くに、花壇がありました。

車が10台止められる駐車場、くらいの結構大きなスペースです。

中に小道があり、息子と歩いてみましたが、その両端に大きな、人造のチューリップがありました。

で、これが怖いと。

色遣いが、花壇の花とかけ離れているわけでもありませんし、もちろん音もしません。

一体何が怖いのか、分からないのですが、怖くて抱っこしてほしい、というのでしてあげました。

 

今回の遊園地で、一度乗った乗り物にもう一回乗りたい、と言うのは想定内です。

普段の生活でも、一度見たビデオをもう一回見たい、一度やった遊びをもう一回やりたい、一度読んだ絵本をもう一回読んでほしい、と言うことは良くあります。

 

今、問題だと思っているのは、事前にこれで最後、と約束していても、もう1回、ということが非常に多いことです。

Youtubeの動画を見せれば、これは短かったからもう1回、とか、頑張って理屈をつけているので、ついもう1回に応じてしまうのです。

朝の出勤前に、もう1回と言われても、応じられないこともあります。

そうすると、ソファーに突っ伏して、泣いています、声も出さずに、しくしくと。

 

同じような?過剰サービス(息子に対してですが)には、フルーツを家族それぞれのお皿に取り分け、食べ始めた後に、息子が好きでかぶりついているのを見ると、自分の皿から少し分けてあげることもあります。

これも、次からは期待してしまうようになるので、困ったなあと思っています。

 

息子の笑顔を少しでも多く見たい、と思う気持ちはあります。

しかし、考えなしにやってしまうと、妙な期待を持たせて、次に嫌な思いをさせてしまうので、どうしたものでしょうかね。

告知

息子にどのタイミングで自閉症であることを伝えるか、は非常に難しい問題です。
ただ、少なくともその時までに、自分の中で自閉症とは何なのかを整理しておく必要があるのだろうと思っています。
このようにブログを書いているのも、その整理に役立てばいいな、という気持ちが強いです。
とは言っても、その伝えるタイミングはまだ先の事でありますし、娘の結婚式では娘に何を伝えればいいのかな、と思うのに似ているかもしれません。

最近、この記事を目にして、タイミングの件を思い出しました。
https://anond.hatelabo.jp/20170626215134
これが息子によって書かれたものだとしたら、あるいは将来、息子がこんな風に考えるのだとしたら、とても悲しいです。
そして、こんなことを伝えてあげたいと思います。

■人生は効率的でなくてもいい
もっと早く自閉症が分かっていれば、余計なお金を支払うことも、余計な時間を使うことも(学校に通うことも)なかったのに、と書かれています。
振返ってみて、こうしていればよかった、という後悔は人生では常に付きまといます。
でも、人生なんて正解が分かっているものではありません。
前に進んだり後ろに戻ったり、上がったり下がったりを繰り返すものではないでしょうか。

少なくとも、無駄とされている学費について、私は大した問題ではないと思います。
でも、それよりも寄り道をすることが後から得がたい経験だったとわかることもありますし、自分にとってふさわしくない環境が分かるだけでも、やってみた価値があります。
つまり、後ろや下にさがることはマイナスとも言い切れないのです。
さらに言えば、自分の人生をそのように振り返ることが、幸福に生きる、ということではないでしょうか。

自閉症はただの性質だ
この方の文章にも書かれている通り、自閉症であってもコミュニケーションが取れ、恋人までできる人生を送ることができます。
そもそも自閉症であることは、伸長が高いとか、目がいいとか、足がくさいとか、そんな性質の一つです。
その性質が、物事の難易度(学校生活を送るとか)を決めていることはあります。
しかし、できること/できないこと、を決める要因になることは、相当に稀でしょう。

背が低いからバスケットボールの選手になれない、ということはあるかもしれません。
でも、それって背が低いから、だけでしょうか?
もっと他にも原因があるのではないでしょうか?
自閉症についても同じです。
それが成功を難しくしている要因であることは否定しませんが、それだけが決定因ではないでしょう。

ちなみに、私は、だから努力すれば乗り越えられるんだよ!、みたいなことを思っているわけではありません。
もしかしたら、努力で乗り越えられるのかもしれないとは思います。
でも、そこで努力すべきなのか、別の道を模索すべきなのか、は選択できる問題であるはずです。


若いときはきれいごとに聞こえるかもしれません。
あるいは、私が自閉症ではないから言えること、なのかもしれません。
でも、親としては、そんなことを言い続けてあげたい、と思っています。

がぶ飲み

夏休みも近づいてきましたが、この時期に学校でも幼稚園でも行われるのがプールの授業です。

息子は水遊びが大好きなのですが、このプールが原因で最近は幼稚園に行くのを嫌がっています。
水遊びは好き、顔を水につけることもできるようになってきました。ですが、予期しないところから水がかかるのは嫌、なようです。
これ特性なの?それとも個性なの?と悩むところの一つです。

プールでは、頻繁に顔に水がかかってびっくり、で楽しめなくても、息子が楽しめるのが銭湯です。
いや、本人は楽しいかもしれませんけど、風呂で遊ぶってことは周りに水しぶきを飛ばすってことで、親はそれほど楽しくないイベントなのですが。
とは言っても、楽しいなら行かせてあげたい、ということでまたしても銭湯に行ってきました。

銭湯では、初めの1時間は母親と入り、後半の1時間は父親と遊びます。
妻からしても有難いこの申出で。

暑い時期になってきたので、屋外の寝湯(寝転がると身体の下半分がお湯につかるくらいの湯量のお風呂)は大人気。
息子はお風呂から排水のため流れてくるお湯で遊んでいて、結局空かなかったのですが、たいそう満足しておりました。
あとは体温に近い温度のお風呂があるのですが、こちらも好きです。
白濁していて、他人の下半身が見えません。見えていても気にしない息子ではありますが、見えなければ一層気にしない。
ので、他人様の足を踏んだり、を何度も繰り返し、その数だけ、私が謝ることになります。
全裸で謝罪、はあ。

さて、お風呂から出ると、のどの下あたりを押さえて、ここが痛い、と言います。
何時から、と聞くと、今痛くなった、とのこと。
なんだかわかりませんが、痛いと訴えた直後に別の話を始めるほどなので、違和感がある程度なのかと思います。
で、とりあえず水を飲んでみたら、というと、それで治まった、と言います。
着替えている間にまた痛くなった水が飲みたいと言うので飲ませ、を2,3回繰り返したでしょうか、妻と合流して、アイスを食べて帰りました。

それから、息子が痛いと言わなくなったので、すっかり忘れていました。
この日は、妻が言うには、夕食でもびっくりするくらいの水を飲んでいたそうで、夜中にはおねしょがオムツからあふれ出したりしています。

で、翌朝です。
妻に、忘れていたけど、息子が昨日、お風呂でのどの下が痛いと訴えていたことを説明しました。
私は出勤するので、もしまた息子が痛いと言い出すことがあれば医者に行くことも検討しよう、ということです。
その時に、水を飲んだらと勧めて、一時的に良くなった話もしました。

これを聞いて妻が言うには、息子はその水を飲むべし、という指示を守って、痛くなるたびに水を飲んでいたから、昨日はあれだけ水を飲んだのではないか、ということです。
私も、それはありうるかなと思いました。
もちろん、私の真意は、一時的なものだったら水を飲むと落ち着くかもしれない、という程度だったのですが。

念のために付け加えておくと、前日(銭湯に行った日)、息子は私とお風呂に入る前から、通常ではあり得ないほどの水を飲んでいました。
妻が持っていたペットボトルをお風呂に入っている間に飲み干したほどなので。
なので、私の指示ばかりが水を飲んだ理由ではない可能性も相当にあります

とはいうものの、何気なく教えたことを息子が素直に守っていることもまたありそうなことです。
自分でも覚えていないような何気ない一言が、子供にとっては大事な教え、だと思い込むことがありうる、という貴重な教訓になりました。
そして、今後、より気をつけないといけないなと思いました。

父親・母親参観日

息子の幼稚園で、父の日に合わせて開催された父の日参観に行ってきました。
私は、数日前にそんな会があると聞いて慌てたのですが、息子は大変、楽しみにしていたらしいです。
いまいち、具体的に何が楽しみなんだか分らなかったんですけどね、何となくわくわくするって感じだったのでしょうか。

昨年、年少の時には、父親と一緒に幼稚園に行くことが出来ず(泣いて嫌がった)、母親同伴だったのですが、今回は、父親と二人で行くことが出来ました。
パパに幼稚園への行き方を教えてあげよう、と両親揃って言い続けたのですが、これが効果を発揮したのかどうかはいまいち分かりません。
幼稚園までの道すがら、猫じゃらしだの、駐車場の鉄パイプだの、あれこれと気を散らせながら、歩いていきました。

幼稚園の門の前で、同じく発達障害を持つ、同じクラスの男の子と出くわしました。
彼は、母親ときていたのですが、それを見た息子が、○○君、お母さんと一緒だなんて恥ずかしいね、と言うのです。
息子にとって、イレギュラーは容認しがたいのだと思います。でも、これはやめさせないといけないことだと思うのです。
方法は分かりませんが。

幼稚園では、靴を脱いで建物の中に入ります。
建物内のどこに息子の教室があるのだか分からないので、息子に案内してもらうのですが、先に靴を履きかえた息子が、こっちだよ、早く来いよ!と言っていて、すかさず先生から言葉使いを叱られていました。
息子が敬語を意識して使えているとは思えないのですが、ですが、なんとなく不愉快な時には敬語が出てこないのは面白いところです

教室に着くと、支度をして(持ち物を所定のロッカーにおさめ)、トイレに行きました。
後程触れますが、この後、教室を出て小一時間で戻ってくるのですが、戻ってきたときにもやっぱりトイレに行っていました。
教室に入ると緊張するのでしょうか。
昨年、一時期は毎日のように幼稚園でお漏らししていたことを考えると、トイレに行けるだけ成長したことを実感します。

息子は個別にイラストの描かれたカードを使って、今日一日の流れを説明されます。
一度、講堂に移動して体操した後、教室に戻って歌を歌ったり、先生の話を聞いたりして帰る、という流れです。

講堂では、体育の先生が、親子でセットになってする運動を指導してくれました。
親が樹になって、子供がそこを登ってみよう、とか。
親、子供、親、子供と輪になって、両隣と手を繋いでから、みんなで一方方向に同時に走ろうとか(こうすると、子供の足が宙に浮きます)。
息子は参加したくないときは床に寝そべっていました。親が子供の足を持って、手押し車する、とか。

先生は大変だな、と思ったのは、今日の参加者は大半がお父さんであったものの、一人お母さんが混じっていたことから、配慮しながらお話されていたことです。
お父さんは子供の足を持って、と言えないので、お父さんかお母さんが子供の足を持って、と言う、とかですね。

体操が終わると、教室に戻って歌を歌ったり、先生のお話を聞いたりします。
歌は、傍目に分かるほど、全く参加の意思なし、手遊びがついていてもやるつもりはなし、です。
まあそれでも座っていられるだけでも大きな進歩だと思うのですが

途中で何回か、息子が発言したことがありまして、それが、あの子は椅子に座らなきゃだめなのに座っていない、だったり、今日のために練習してきた親に向けた歌をいつ歌うのか、だったり。
いや、親に向けた歌なんて、始まる前に、あーあ待ちくたびれちゃったなーとか言うくせに、全く歌っていなかったりするわけです。

正直、誰がどうみてもまがうことなき問題児だなあと思うわけです。
私、これまで自分と同級生の問題時についてみてきたことが多々ありますが、邪魔だな、以上の感想はありませんでした。
ただ、息子は違うのですよね。
他のお子さんの邪魔をしていて申し訳ないと思うのです。
これも正直に書いておけば、周りと合わせて歌を歌っている子供たちのようであってほしい、と息子に願っていることは全くないのですが。

最後に、子供が親のために作った手紙入れをプレゼントされました。
自分の分を渡された子供が親に渡しに来るのですが、一番最初に名前を呼ばれた息子が、私の方に満面の笑みで駆け寄ってくる姿を見ていると、何とも言えない気持ちになったのでした。

投げるときにはなるべく上から

気づけば、肩が痛いです。

何もしていなくても痛い。

そして、常に痛いわけではなく、何ともなかったり、痛みが和らいだりすることもあります。

つまり波があるってことです。

 

最近、土日に息子を抱きかかえている疲労が週明けに痛みとなって現れることがあります。

妻はその日の夜から痛くなるようですが。

 

そう、疲労の原因は、4歳になってもまだ抱っこをせがむ息子にあると思われます。

特に私の場合は肩車をせがまれることが多く、そういえば、週末は何度か肩車をしました。

 

私はあまり肩車が好きではありません。

後で肩が痛くなる、のはその場では思い出しませんし、肩車自体は抱っこしているよりよっぽど楽なのでその意味では身体的に辛いわけではありません。

私が肩車を好きではない理由は、一つには息子の表情が見えないからです。

だからつまらない。

息子もせがむくらいですから楽しいのでしょうし、横から見ている妻も息子がにこにこしている様子を伝えてくれます

それが自分には見えない。

そしてもう一つは、肩車された息子の行動がひどいのです。

 

昔、上から唾を垂らされたことがあります。

さすがに何度か怒られて最近ではしなくなりましたが。

代わりに、帽子をかぶっていると、まず例外なく、取り上げて放り投げます。

ついでに、頭を撫でてくれているようなのですが、力加減がおかしいので、髪の毛が絡まって痛いのです。

 

この、モノを投げる、というのは他の場面でもよくするのですが、何度話しても直りません。

おもちゃを渡すとき、読んでほしい絵本を渡すとき、手渡すことができないのです。

 

放り投げたものは、自分で取らせ、もう一度手渡しさせて、それを褒める、の繰り返しです。

良く考えてみると、水筒なんかはちゃんと渡せるんですよね。

投げるものと渡すもの、どこに違いがあるのだかさっぱりわかりません。

 

なお、週末は、展望台にはさっさと飽きることが分かりました。

まあ、外の景色を見ても別に楽しくない、のは私も同感なのでいいのですが。

ついでに、大道芸は意外なことに楽しくみられることが分かりました。

以前は人ごみに近づく、だけで嫌がっていたのに、ずいぶんと変わったものだと思います。

 

いつか、人にものを渡すときにはほうり投げるのではなく、手渡しできるようになるのでしょう。

私はそんないつかが楽しみで仕方ありません。

口は災いのもと

息子の、最近目立ってきた口癖と言えば、

・きらーい

<使用例>パパなんてきらーい

があります。

 

叱られたときに、言い返すのに使っています。

父親に対しては、誕生日にお菓子あげないからね!も追加で口にします。

母親に対しても、使うのですが(ママなんてキラーい!)、かなり手痛く反撃されます。

そして、泣いて終わるケースが大半です。

 

さて、母親と離れるのが何より嫌な息子ですが、離れた瞬間にケロッとしていることが良くあります。

休日に外でランチして、母親がそのまま美容室に行くので、私と息子が母親とは反対方向の電車に乗った時のことです。

一緒に行きたい、と言って聞かない息子を私が抱っこし、こちらの電車が先に来たので、乗ったのですが、誘拐犯に連れ去れるかのように、火のついたように、泣き叫びました。

ところが、電車のドアが閉まった途端に泣き止み、何事もなかったかのように、私に向かって、帰ったら何をして遊ぼうか、と話しかけてくるのです。

私はほっとして、返事しましたが、隣にいた老婦人のびっくりした顔はなかなか忘れられません。

 

先日も朝から、母親にきらいと言って、反撃され、息子が泣いていました。

妻が着替えに寝室に入り、ドアを閉めた瞬間、息子の鳴き声がピタッと病んだのには笑ってしまいました。

真顔でどうしようか悩んでいるようだったので、ごめんなさいって言ってきたら、と横から口を出すと、寝室の扉を開けて、また泣き出してから謝っていました。

 

以前から変わらないもう一つの口癖は、なんか頂戴、です。

お菓子をねだるときに使います。

 

気づけば、どこかへ行くたびに、そこに行くからお菓子頂戴、と言うようになっています。

幼稚園など、家の外では言いませんし、私に対しても言いません。

それは何もあげない(持っていない)からです。

 

妻がそこでお菓子を渡すのは、目的地に向かって歩かせるためです。

「歩かせる」ためなんです。

お菓子がなければ、抱っこして、と言うので。

特に、腰を悪くしたところから、お菓子で釣ることを初め、抜け出せなくなってきています。

 

今年、発達支援教室でやっている、親子の対話の仕方教室に妻が通うことになりました。

もうすぐ始まるのですが、これは一般のしつけ教室ではなく、自閉症の子供を持つ親向けのプログラムで、参加費は自治体の補助金がでます。

人気がある、というと変ですが、申し込めば誰でも受けられるものではなく、どの子ども(親)にとって必要性が高いか、を判断した上で、参加が認められるそうで、妻が通えるようになったことはいいことなのか、少し評価に迷うところではあります。

 

いずれにせよ、妻が聞いてきたことを元に、私の息子に対する態度も何らか変える必要があるのでしょう。

何を聞いてくるのか、教えてもらえるのか、夫婦そろって少し楽しみにしています。

自閉症に関する本(書名なし)

先日、発達障害の外来に妻と息子行った際、先生から、何冊か本を紹介されました。
まずは図書館で借りて読んでみてほしい、その中から少なくとも一冊は購入して手元において、何度か読み返してほしい、と先生から言われたそうで、お財布にやさしい提案に感謝しつつ、図書館で借りられるものから順番に借りています。
まず妻が読んで、もう眠たくてしょうがない、と言われて私のもとへと回ってきています。
確かに読みずらいですが、以前に何冊か読んでいる本やインターネットで調べている事柄と大きく異なることが書いてあるわけではないのだな、とも思っています。

さて、私たちにとっては都合のいいタイミングで、NHK発達障害を取り上げてくれています。
プロジェクトのホームページも立ち上がっています。
http://www1.nhk.or.jp/asaichi/hattatsu/

以下は、こちらの取材に同行された記者の方の発達障害に関する感想の記事です。
http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/30/talk-with-developmental-disability-p
erson_n_16876110.html?utm_hp_ref=japan


世の中が、発達障害者に対してより生きやすいような配慮をしてくれるようになると大変うれしいと思います。
私自身も、一人の、発達障害に対して知識の乏しい人間として、発達障害に対する知識を深めることが有意義であると思っています。
それは、発達障害に限らない話で、一人でも、少しでも、生きずらいが減っていってほしいです。

その上で、発達障害を持つ子供の親としては、もう1つ、知りたい情報があります。
そして、この情報が極端に不足しているように思われるのです。

世の中が支え合いによって営まれているのは一面の事実です。
しかし、奪いあいによって営まれているのもまた一面の事実です。
親としては、支え合いの輪の中で息子の人生がよりよいものとなることを望むことに加え、奪いあいの輪の中で、自分を守る方法を身に着けてくれることを願っています。もっと言えば、勝ち抜ける方法を身に着けてくれることを願っています。
この自分を守り、勝ち抜くために自閉症とどう向き合ったらいいのか、という情報が不足しているように思えるのです。

多くの本では、学校の勉強についていけない、仕事が長続きしない、等々、周囲の理解と助けによって改善できることが多いことを教えてくれています
でも、悪意のある相手をどうやって避けるか、も重要ではないかと思うのです。

この点、自閉症でない人にとっての悪意のある人間の避け方や、詐欺から身を守る方法、というのも確立していない、と思われるかもしれません。
確立しているかどうかは定かではありませんが、ノウハウや人生訓のようなものはたくさん存在します。
これらがどの程度、自閉症の人にも有効で、どの程度有効ではない(別の処方箋をかんがえなければいけない)のか。

これから読み進める本の中で、これへの回答があるのかないのか、本の感想と合わせて、また書いてみたいと思っています。